Masuk「……あの人が」
かすれた声が、夜の部屋に落ちた。
アストリアの神殿の奥。ミユウに与えられた部屋は、白い石壁に囲まれていて、窓から差し込む月明かりだけが、薄く床を照らしていた。
昼間はあれだけ人の声であふれていた神殿が、今は嘘みたいに静まり返っている。
その静けさの中で、ミユウは眠っていた。
いや、眠っているはずだった。
白い羽は力なくシーツに広がり、細い指は胸元で何かをつかもうとするように震えている。額には汗が浮かび、唇だけが何度も同じ言葉を繰り返していた。
「……あの人が。……あの人が」
俺は椅子を蹴るように立ち上がった。
「ミユウ」
返事はない。
「ミユウ、起きろ」
声をかけても、まぶたは開かない。代わりに、ミユウは苦しそうに眉を寄せ、首を横に振った。
「いや……来ないで……」
胸の奥が冷えた。
昼間、ミユウは倒れるまで人を癒した。
止めても笑っていた。まだ大丈夫だと、いつもの明るい声で言った。
大丈夫なわけがなかった。
こんなに細い体で、こんなに力なく眠って、夢の中でまで誰かに怯えている。
俺はベッドの横に膝をつき、ミユウの手を握った。
驚くほど冷たかった。
「ミユウ!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
その瞬間、ミユウの瞳が開いた。
「っ……!」
白い羽が跳ねる。ミユウは何かから逃げるように上半身を起こし、そのままベッドの端へ傾いた。
「危ない!」
俺は考えるより先に腕を伸ばした。
倒れ込んできた体を抱き止める。
軽い。
あまりにも軽かった。
腕の中のミユウは、今にも消えてしまいそうだった。薄い雪を抱いているみたいに、強く触れたら壊れそうで、離したら二度と戻ってこない気がした。
「龍夜……くん……?」
「俺だ」
「ここ……どこ……? あの人は……」
またその言葉を聞いた瞬間、胸の奥に火がついた。
怒りじゃない。
たぶん、悔しさだった。
俺はミユウの肩を支え、逃げるように揺れる顔を自分のほうへ向けた。
「悪夢でも、ラフィセルでもなく、俺を見ろ」
ミユウの瞳が揺れた。
「俺はここにいる。お前の目の前にいる。だから、今はそいつを見るな」
「でも……」
「でもじゃない」
俺はミユウの額に、そっと口付けを落とした。
ほんの一瞬だった。
泣きそうな子どもを現実に引き戻すみたいに。震えている心に、ここにいると伝えるみたいに。
ミユウの呼吸が、少しだけ落ち着く。
俺は額を離し、真っ直ぐ見つめた。
「命を削ってまで、誰かを助けるのはやめろ」
「龍夜くん……」
「人助けが好きなのは知ってる。目の前で苦しんでる人を放っておけないのも知ってる。でもな」
喉の奥が熱くなった。
責めたいわけじゃない。
泣かせたいわけでもない。
ただ、もう見たくなかった。
倒れて、目を覚まさなくなって、うわごとで知らない男に怯えるミユウなんて。
「お前が倒れたら、俺が怖いんだよ」
ミユウの目が大きくなった。
「俺はまだ弱い。魔力もほとんどない。剣だってまともに振れない。だけど、お前が俺の前で消えそうになってるのを、ただ見てるだけなんて絶対に嫌だ」
「消えないよ……私、ここにいるよ」
ミユウは笑おうとした。
けれど、笑顔になりきれなかった。
いつもの太陽みたいな明るさが、今は薄い布の向こうに隠れているみたいだった。
俺はミユウを支えたまま、できるだけ強く言った。
「いるなら、ちゃんと生きてろ」
ミユウの唇が震えた。
「……うん」
「お前だけが無理するな。お前だけが笑って、大丈夫って言って、倒れるまで頑張るな」
「だって……私、助けられるなら助けたいの」
「それは悪いことじゃない」
「泣いてる人がいたら、笑ってほしい。苦しんでる人がいたら、楽になってほしい。そう思ったら、止まれなくなるの」
「なら、俺が止める」
ミユウが息をのんだ。
俺は震える背中を支えながら、はっきり言った。
「お前が走りすぎるなら、俺が止める。お前が倒れそうなら、俺が抱き止める。お前が怖い夢を見るなら、俺が起こす。ラフィセルが来るなら、俺が前に立つ」
「龍夜くんは……魔力、ないのに?」
「ない」
即答した。
ミユウが涙で濡れた目を丸くする。
「剣も下手だ。ルゥに言わせれば、たぶん救いようがないくらい未熟だ」
「そんなことない!」
急にミユウが顔を上げた。
涙をためたまま、必死に首を振る。
「龍夜くんはすごいよ! 魔力がなくても立ってた! 私のこと、守ろうとしてくれた! 逃げなかった! すごく、すごくかっこよかった!」
真っ直ぐすぎる言葉に、胸が詰まった。
こんな状態でも、ミユウは俺を褒める。
自分のほうが苦しいくせに、俺を信じようとする。
だから俺は、この子を守りたいと思った。
守らなきゃいけないからじゃない。
召喚されたからでもない。
勇者に選ばれたからでもない。
俺が、そうしたいと思った。
「じゃあ、そのかっこいい俺が言うことを聞け」
「え?」
「今日は寝ろ。もう誰も癒すな。誰が来ても断る。泣かれても断る。お前が勝手にベッドから出ようとしたら、抱えて戻す」
「龍夜くん、怒ってる?」
「怒ってる」
「私のこと、嫌いになった?」
「なるわけないだろ」
声が強くなった。
ミユウはびくりとしたあと、また泣きそうな顔になった。
「嫌いになれるなら、とっくになってる。お前が勝手に無茶して、俺の寿命を縮めるようなことばっかりしても、嫌いになんかなれない」
「寿命、縮んだの?」
「かなり縮んだ」
「ご、ごめん……」
「だから寝ろ」
ミユウは小さく笑った。
涙の残る笑顔だった。
その笑顔を見て、少しだけ胸の痛みが和らいだ。
ミユウは俺の制服を握ろうとした。
けれど、その指には力が入らない。
布をつかんだというより、触れているだけだった。
その弱さが、胸に刺さった。
ミユウは、いつも明るい。
誰かを助ける時は迷わない。
笑って、走って、手を伸ばす。
でも今、俺の腕の中にいるミユウは、服を握る力さえ残っていなかった。
「……私、ひとりで頑張らなくていいの?」
小さな声だった。
俺は息をのんだ。
そんなことを、今まで誰も言わなかったのか。
この子はずっと、笑っているから大丈夫だと思われてきたのか。
助けられるから、助けるのが当然だと思われてきたのか。
「いいに決まってるだろ」
俺はミユウを抱きしめ直した。
「お前だけが頑張るな。お前だけが背負うな。俺はまだ弱いけど、隣に立つ。今すぐ全部は無理でも、いつか絶対に、お前が無理しなくていいくらい強くなる」
ミユウの肩が震えた。
「そんなこと……言われたの、初めて」
そして、ミユウは泣いた。
声を上げるでもなく、ただ俺の胸に額を寄せて、静かに涙をこぼした。
俺は何も言わなかった。
言葉で慰めるより、今は離さないことのほうが大事な気がした。
その時、扉の向こうから軽い足音が近づいてきた。
扉が開く。
入ってきたのはルゥだった。
金色の瞳でこちらを見るなり、ルゥは少しだけ眉を上げた。
「ずいぶん深刻な顔をしていますね、龍夜」
「今それを言うのか」
「事実ですから」
相変わらず、丁寧なのに偉そうな声だった。
ルゥはベッドのそばまで歩いてきて、ミユウの顔を見る。わずかに目を細めた。
「ミユウ。まだ動いてはいけません。あなたは自分が思っているより危うい状態です」
「うん……ごめんね、ルゥ」
「謝罪より睡眠を優先してください」
言い方は冷たい。
けれど、ミユウの布団を直す手つきは雑ではなかった。
ルゥは俺に視線を移した。
「龍夜、来なさい」
「今か?」
「今です」
「ミユウは」
「ここにいます。逃げる体力もないでしょう。もっとも、逃げようとした場合は、あなたが先ほど宣言した通り抱えて戻せば済む話です」
ミユウが布団の中で小さく肩をすくめた。
「龍夜くん、行ってきて。私、ちゃんと寝てる」
「信用できない」
「ひどい!」
少しだけ、いつもの声が戻った。
それだけで救われる。
俺はミユウの手を握り直した。
「すぐ戻る」
「うん」
「本当に寝てろ」
「うん」
「誰か来ても癒すな」
「……うん」
「今の間は何だ」
「ちょっとだけ迷った」
「迷うな」
ミユウは困ったように笑った。
でも、その笑顔の下に疲れが残っているのは隠せていない。
俺は立ち上がり、ルゥの後について部屋を出た。
廊下は冷えていた。
神殿の石造りの壁に、夜の静けさが染み込んでいる。昼間は助けを求める声であふれていた場所が、今は遠い世界みたいに静かだった。
ルゥは振り返らず歩く。
「ラフィセルの名を聞きましたね」
「ミユウがうなされてた。あいつは何者なんだ」
「今のあなたに説明しても、すべてを理解するのは難しいでしょう」
「なら、理解できるところだけ話せ」
ルゥがちらりと俺を見た。
「言い返すだけの気力は残っているようですね」
「知らないまま怯えるのが嫌なだけだ」
「悪魔族の族長ラフィセル。長い間、ミユウを追い続けている存在です」
長い間。
その言葉の重さに、喉が詰まった。
「……ミユウは、そんなやつにずっと?」
「ええ。夢の中でさえ逃げ切れないほどに」
拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
「今ので気づかれたのか」
「可能性はあります。ミユウの力が大きく揺れました。癒しの力を無理に使いすぎたせいで、存在の光が外へ漏れた」
「つまり、昼間のあれで」
「あなたが止めるのが遅ければ、もっと危険な状態になっていたでしょう」
悔しさが腹の底に落ちた。
俺は守ったつもりで、まだ何も守れていない。
ミユウが倒れるまで止められなかった。
悪夢から引き戻すことしかできなかった。
ラフィセルという敵の名前を聞いても、今の俺には剣を握る力さえ頼りない。
それでも、逃げたくなかった。
ルゥは神殿の裏庭へ出た。
月明かりの下、白い石柱が並んでいる。昼間、俺がスライムと向き合った場所だ。
風が吹き、制服の裾が揺れた。
ルゥは俺の前で立ち止まり、指先をすっと上げた。
「龍夜」
「何だ」
「あなたは弱い」
「知ってる」
「魔力はほぼありません。剣技も未熟。体力も平凡。戦いの才能があるとは言い難い」
「そこまで並べる必要あるか」
「あります。現実を知らない者は、最初に倒れます」
ルゥの声は淡々としていた。
突き放すようで、逃がさない声だった。
「ですが」
ルゥは一拍置いた。
「根性だけはあります」
俺は思わず顔を上げた。
ルゥは偉そうに腕を組んでいる。
「本当に、そこだけです。勘違いしないでください」
「一言多いんだよ」
「重要な補足です」
その瞬間、ルゥの指先から光があふれた。
白ではない。
星を砕いたような青銀の光が、俺の足元に円を描く。風が巻き上がり、制服の襟元が震えた。
「おい、何を」
「動かないでください。見てくれを整えます」
「見てくれ?」
光が一気に体を包み込んだ。
制服の布がほどけるように光へ変わり、次の瞬間、肩にずしりと重みが落ちた。
「うわ、重っ」
思わず声が出た。
黒を基調にした服。
胸元には硬い防具のような装飾がつき、腰には剣を下げるための帯が巻かれている。肩には軽い鎧のようなものまで乗っていた。
見た目は、たしかに勇者っぽい。
けれど、着た瞬間にわかった。
動きづらい。
「何だこれ。重いし、腕が上げにくい」
「勇者服です」
「服っていうより修行器具だろ」
「その認識で合っています」
「合ってるのかよ」
ルゥは満足そうに俺を見た。
「見てくれだけはそれらしくなりましたね」
「うるさい」
「中身はまだ追いついていません」
「本当に一言多いな」
俺は腕を回そうとして、肩の重さに顔をしかめた。
こんなものを着て戦うのか。
スライム相手ですら苦戦した俺が。
でも、不思議と脱ぎたいとは思わなかった。
重い。
動きづらい。
息苦しい。
それでも、この重さが今の俺には必要なものに思えた。
ミユウを守ると言った。
ラフィセルが来るなら前に立つと言った。
なら、軽い制服のままじゃ駄目だ。
何かを背負うなら、その重さに慣れなきゃいけない。
「アストラルブレイドを扱うには、その体では足りません」
ルゥが言った。
「魔力のないあなたが剣を振るうなら、体と心で不足を埋めるしかありません。アストラルブレイドは、才能のない者に優しい剣ではありません」
「優しくなくていい」
俺は腰の剣帯に手を置いた。
まだそこに剣はない。
それでも、もう握ると決めていた。
「俺に優しくする必要なんかない。強くなれるなら、それでいい」
ルゥの目がわずかに細くなる。
「口だけなら、いくらでも言えます」
「だったら試せよ」
風が止まった。
自分の声が、夜の庭にまっすぐ響いた。
「ミユウがまた無茶する前に、俺が止める。ラフィセルが来る前に、俺が前に立てるようになる。魔力がないなら、ないまま強くなる。剣が重いなら、重いまま振る」
胸の奥で、何かが熱くなっていた。
怖さは消えない。
勝てる保証なんてどこにもない。
でも、ミユウの冷たい手を思い出した。
俺の制服を握る力さえない指を思い出した。
それだけで、足が前に出た。
「俺は、ミユウのために勇者になる」
口にした瞬間、それは願いじゃなくなった。
決意になった。
ルゥはしばらく俺を見ていた。
そして、ゆっくり笑った。
優しい笑みじゃない。
試すような、容赦のない笑みだった。
「では、次の相手を用意しましょう」
「スライムか?」
「いいえ」
ルゥが指を鳴らした。
空気が裂けた。
裏庭の中央に黒い影が落ちる。影はぐにゃりと広がり、そこから小さな角を持つ魔物が這い出してきた。
子どもくらいの大きさ。
痩せた体。
細い腕。
けれど、目だけがぎらぎらと赤く光っていた。
背中には裂けた羽のようなものがあり、口元からは笑っているような息が漏れている。
スライムとは違う。
見た瞬間、肌が粟立った。
こいつは、ぶつかれば痛いだけでは済まない。
こちらを倒す気で来る。
「小型悪魔です」
ルゥの声が落ちる。
「安心しなさい。本物よりはかなり弱く調整しています」
「安心できる要素がどこにある」
「あなたがすぐ倒れない程度です」
「それも安心できない」
小型悪魔が首をかしげた。
そして、にたりと笑った。
その笑みを見た瞬間、足が一歩下がりそうになった。
怖い。
当たり前だ。
俺は普通の高校生だった。昨日まで、こんな化け物と戦う人生なんて想像もしていなかった。
でも、背中にミユウの部屋がある。
あの部屋で、ミユウが眠っている。
泣きながら、俺の服を弱々しく握ったミユウがいる。
俺は奥歯を噛みしめた。
下がりかけた足を、地面に打ちつける。
「ルゥ」
「何ですか」
「アストラルブレイドを出せ」
「扱えませんよ」
「扱えるようになる」
「今は振り回されるだけです」
「だったら、振り回されながら覚える」
ルゥの口元が、ほんの少しだけ上がった。
「無謀ですね」
「丁寧に強くなってる時間がない」
俺は小型悪魔から目をそらさなかった。
怖いなら見ろ。
震えるなら握れ。
逃げたいなら、一歩前に出ろ。
自分にそう言い聞かせた。
ルゥが手をかざす。
光が集まる。
俺の右手の中に、星の光でできたような剣が形を持った。重さが腕にのしかかる。普通の剣とは違う。手のひらから骨まで響くような熱があった。
アストラルブレイド。
名前だけは聞いていた剣。
けれど握った瞬間、わかった。
こいつは俺を選んでなんかいない。
俺を試している。
腕が震える。
肩が悲鳴を上げる。
それでも、俺は剣先を下げなかった。
小型悪魔が低く唸る。
石畳を爪で引っかき、こちらへ体を沈めた。
来る。
俺は息を吸った。
ミユウの顔が浮かんだ。
涙をためて、俺をすごいと言った顔。
俺を信じている顔。
だったら、応えろ。
俺は剣を構えた。
「来いよ」
声は震えていなかった。
小型悪魔が跳んだ。
黒い影が月明かりを裂いて迫る。
速い。
体が反応するより先に、恐怖が背中を叩いた。
それでも俺は逃げなかった。
剣を持ち上げる。
重い。
間に合わない。
そう思った瞬間、ミユウの弱い指の感触がよみがえった。
間に合わせるんだ。
俺は歯を食いしばり、力任せにアストラルブレイドを振り上げた。
刃と爪がぶつかる。
火花のような光が散った。
衝撃が腕を貫き、足元が崩れそうになる。肩が外れそうに痛い。呼吸が詰まる。
けれど、倒れなかった。
小型悪魔が目を見開く。
俺も、自分で驚いていた。
受け止めた。
ほんの一撃。
それだけだ。
でも、受け止めた。
「……重すぎるんだよ、この剣!」
「剣のせいにしないでください」
ルゥの声が飛んでくる。
腹が立つ。
その腹立たしさが、少しだけ恐怖を押し返した。
小型悪魔が爪を引き、もう一度飛びかかってくる。
今度は横から。
俺は足を動かした。
勇者服が重い。体が流れる。剣も遅い。
でも、見えた。
相手の動きが少しだけ見えた。
俺は半歩踏み込み、剣の腹で爪を弾いた。
また衝撃。
腕が痺れる。
それでも前へ出る。
「俺は」
息が苦しい。
「もう」
足が震える。
「見てるだけのやつにはならない!」
叫んで、剣を振った。
小型悪魔の体をかすめる。
深くは入っていない。
けれど、黒い影が初めて後ろへ跳んだ。
ルゥが目を細める。
「……あなたにしては、悪くありません」
その声が聞こえた。
ほんの少しだけ、認められた気がした。
でも、そんなことに浸っている暇はない。
小型悪魔はすぐに体勢を立て直し、赤い目で俺を睨んだ。
俺は剣を構え直す。
腕は痛い。
肩も重い。
足は今にも笑いそうだ。
それでも、胸の奥だけは熱かった。
ミユウ。
俺はまだ弱い。
すぐには勇者になれない。
だけど、今日ここで逃げなければ、明日の俺は少しだけ強くなれる。
明日の俺が逃げなければ、その次の日はもっと前に立てる。
だから見てろ。
悪夢なんかじゃなく、俺を見ろ。
俺はお前を守るために、何度でも立つ。
小型悪魔が再び地面を蹴った。
俺も前へ出た。
月明かりの下、重い勇者服をまとい、扱いきれない剣を握りしめて。
弱いまま。
震えたまま。
それでも俺は、初めて自分の意思で勇者への一歩を踏み出した。
ザクリ、と鈍い音がした。 俺の剣は、小型悪魔の肩をかすめただけだった。 次の瞬間、黒い影が地面を蹴る。 低く、速い。 俺が剣を戻すより早く、腹に衝撃がめり込んだ。「ぐっ……!」 息が詰まった。 足が浮く。 背中から神殿の裏庭の石畳に叩きつけられ、肺の中の空気が全部逃げていく。 視界が白く弾けた。 それでも、握っていた剣だけは離さなかった。 小型悪魔は、俺より頭一つ分小さい。 なのに、速さも力も桁が違う。 黒い皮膚。 ぎょろりとした赤い目。 裂けた口。 訓練用だとルゥは言った。 けれど、俺には十分すぎるほど化け物だった。「立て」 ルゥの声が飛んだ。 神殿の裏庭には、朝の光が差している。 白い柱。 蔦の絡んだ壁。 噴水の涼しい音。 平和そうな景色の中で、俺だけが泥と汗にまみれていた。「言われなくても……立つ」 膝が笑っていた。 腕も震えていた。 それでも俺は、剣を杖みたいにして立ち上がった。 小型悪魔が、喉の奥で笑うような音を立てる。 馬鹿にされている。 たぶん実際、馬鹿にされている。 魔力ゼロの高校生が、勇者服だけ着せられて、剣を振っている。 向こうからすれば、これ以上ない見世物だ。 けれど、俺はもう決めていた。 逃げない。 ミユウを守ると決めた。 だったら、今ここで膝をついている暇なんてない。「もう一回だ」 俺は剣を構え直した。 ルゥの金色の目が、わずかに細くなる。「雑魚のくせに、口だけは一人前ですね」「雑魚だからやるんだよ」 俺は荒い息のまま笑った。「強いやつが努力したって普通だろ。弱い俺がやるから、意味がある」 小型悪魔が跳んだ。 今度は正面じゃない。 左。 そう思った瞬間、影が右へ流れた。「くそっ!」 俺は反射で剣を振る。 空を切った。 脇腹に爪が当たる。 浅い。 けれど、熱い痛みが走った。 勇者服の布が裂れ、血が滲む。 それでも、俺は下がらなかった。 逃げるためじゃない。 捕まえるために、一歩踏み込んだ。「おおおっ!」 左手で、小型悪魔の腕を掴む。 爪が掌に食い込んだ。 痛い。 でも、離さない。 右手の剣を短く持ち替え、全体重を乗せて突き出す。 刃先が、小型悪魔の胸元をかすめた。 黒い影が、初めて後ろへ跳んだ。 ほんの少し。
「……あの人が」 かすれた声が、夜の部屋に落ちた。 アストリアの神殿の奥。ミユウに与えられた部屋は、白い石壁に囲まれていて、窓から差し込む月明かりだけが、薄く床を照らしていた。 昼間はあれだけ人の声であふれていた神殿が、今は嘘みたいに静まり返っている。 その静けさの中で、ミユウは眠っていた。 いや、眠っているはずだった。 白い羽は力なくシーツに広がり、細い指は胸元で何かをつかもうとするように震えている。額には汗が浮かび、唇だけが何度も同じ言葉を繰り返していた。 「……あの人が。……あの人が」 俺は椅子を蹴るように立ち上がった。 「ミユウ」 返事はない。 「ミユウ、起きろ」 声をかけても、まぶたは開かない。代わりに、ミユウは苦しそうに眉を寄せ、首を横に振った。 「いや……来ないで……」 胸の奥が冷えた。 昼間、ミユウは倒れるまで人を癒した。 止めても笑っていた。まだ大丈夫だと、いつもの明るい声で言った。 大丈夫なわけがなかった。 こんなに細い体で、こんなに力なく眠って、夢の中でまで誰かに怯えている。 俺はベッドの横に膝をつき、ミユウの手を握った。 驚くほど冷たかった。 「ミユウ!」 自分でも驚くくらい大きな声が出た。 その瞬間、ミユウの瞳が開いた。 「っ……!」 白い羽が跳ねる。ミユウは何かから逃げるように上半身を起こし、そのままベッドの端へ傾いた。 「危ない!」 俺は考えるより先に腕を伸ばした。 倒れ込んできた体を抱き止める。 軽い。 あまりにも軽かった。 腕の中のミユウは、今にも消えてしまいそうだった。薄い雪を抱いているみたいに、強く触れたら壊れそうで、離したら二度と戻ってこない気がした。 「龍夜……くん……?」 「俺だ」 「ここ……どこ……? あの人は……」 またその言葉を聞いた瞬間、胸の奥に火がついた。 怒りじゃない。 たぶん、悔しさだった。 俺はミユウの肩を支え、逃げるように揺れる顔を自分のほうへ向けた。 「悪夢でも、ラフィセルでもなく、俺を見ろ」 ミユウの瞳が揺れた。 「俺はここにいる。お前の目の前にいる。だから、今はそいつを見るな」 「でも……」 「でもじゃない」 俺はミユウの額に、そっと口付けを落とした。 ほんの一瞬だった。 泣きそうな子どもを現実に引き戻すみた
「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!」「いや、逃げたかったけどな」「でも逃げなかったもん!」 ミユウは、まるで自分のことみたいに笑っていた。 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。 俺は強くない。 魔力もない。 剣だって、まだまともに振れない。 でも、ミユウはそんな俺を見て、まっすぐに笑う。「龍夜くんは、絶対強くなるよ」「……なんでそんなに言い切れるんだよ」「だって、諦めない人だから」 何気ない言葉だった。 でも、俺にはそれが、どんな魔法よりも強く響いた。 誰かに信じてもらうことが、こんなに怖くて、こんなに嬉しいものだなんて知らなかった。「雑魚スライム一匹で感動するな。見てるこっちがむず痒い」 石柱にもたれたルゥが、鼻で笑った。「うるさいな。勝ちは勝ちだろ」「ほう。言い返す元気は残ってるのか」 ルゥは俺の足元から剣先までを見て、小さく息を吐いた。「まあ、逃げなかったことだけは認めてやる」「それ、褒めてるのか?」「勘違いすんな。底辺が少し地面から顔を上げただけだ」 相変わらず腹の立つ言い方だった。 けれど、不思議と嫌ではなかった。 たぶん、今の俺は少しだけ浮かれていた。 初めて、自分にも何かできるかもしれないと思えたから。 その時だった。 神殿の表側から、ざわめきが聞こえた。 歓声じゃない。 祈りでもない。 泣き声。 叫び声。 助けを求める声。 ミユウの笑顔が消えた。「行かなきゃ」「待て、ミユウ」 俺が止めるより早く、彼女は走り出していた。 神殿の大広間は、人であふれていた。 老人を背負った男。 熱にうなされる子どもを抱いた母親。 顔
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で、ルゥが俺を見ている。 長い金髪。背に広がる白い羽。 天使族の長。その姿は、ただ立っているだけで空気を支配していた。「まだ挑むのか」 ルゥが静かに言った。 冷たい声だった。けれど、雑ではない。 試している。測っている。 俺が本当にミユウのそばに立つ資格があるのかを。「挑むんじゃない」 俺は剣を握る手に力を込めた。「勝つんだ」 ルゥの瞳が、わずかに細くなる。「魔力もない。技も未熟。戦い方も知らない。それで何を根拠に勝つと言う」「根拠ならある」「何だ」「俺が、もう逃げないって決めた」 言った瞬間、自分の中で何かが定まった。 俺は勇者じゃない。 まだ救世主なんて呼ばれるような人間でもない。 けれど、ミユウを守りたいと思った。 あの白い羽の少女を、もう一人で泣かせたくないと思った。 それだけは、誰かに与えられた役目じゃない。 俺自身が選んだ理由だ。「口でなら何とでも言える」 ルゥが片手を上げた。 空気が張り詰める。 芝の上に淡い光が落ち、青白いスライムが跳ねた。 その瞬間、体がぐにゃりと歪む。 一体だったはずの姿が、二つ、三つ、五つに分かれた。 俺を囲むように、同じ姿のスライムが跳ね回る。 右。左。正面。背後。 さっきの俺なら、全部を目で追おうとして、全部に騙された。 でも、もう同じ失敗はしない。 俺は剣先をわずかに下げた。 焦るな。 目だけに頼るな。 魔力がないなら、感じればいい。 読むんだ。奴の動きを。 芝が沈む音。 空気を押す気配。 跳ねる直前の、ほんのわずかな間。 偽物は軽い。 本物だけが、地面
「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだった。けれど、ミユウが眠るまでそばにいてほしいと小さな声で言ったから、俺はベッドの端に腰を下ろした。 ミユウは俺の袖を掴んだまま、安心したように目を閉じた。 その手を振りほどけなかった。 気づけば、俺も壁にもたれてうとうとしていたらしい。 だから、目の前でミユウが泣き叫んでいる光景に、頭が追いつかなかった。「やめてよぉ……お父さん、お母さん、みんな……!」 涙で濡れた声が、月明かりの部屋に落ちた。 白い石壁。薄く揺れるカーテン。窓の外には、青白い光を帯びた夜の庭が広がっている。 綺麗な部屋だった。 なのに、ミユウの瞳だけが、そこにない地獄を見ていた。「ミユウ」 俺は名前を呼んだ。 届かない。 ミユウは目を開けている。けれど、俺を見ていない。俺の向こう側にいる誰かに向かって、必死に首を振っていた。「お願い、連れていかないで……! もう、ひとりにしないで……!」 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。 昼間のミユウは、いつも笑っていた。 天真爛漫で、少し強引で、俺みたいなスキルなしの高校生にまで「大丈夫」と手を伸ばしてくれる。 でも今のミユウは違う。 笑顔の下に隠していたものが、夢の中から無理やり引きずり出されているみたいだった。「ミユウ、起きろ。俺だ。龍夜だ」「こないでっ!」 伸ばした手を、ミユウが払いのけた。 次の瞬間、乾いた音が部屋に響いた。 頬に鋭い痛みが走る。 叩かれたのだとわかるまで、一拍遅れた。 でも、腹は立たなかった。 ミユウの手は冷たかった。震えていた。何より、叩いた本人のほうが、痛みに耐えているような顔をしていた。「い
「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」 ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。 白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。 天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。 戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。 それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。「ルゥ、そんな言い方しないで」 俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。 背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた淡い花より、その白はずっとまぶしい。 けれど、その白さを見るたび、胸の奥がざわついた。 もしミユウが白い翼を持つ存在ではなく、ただの普通の少女として生きていたら。 もっと穏やかに笑って、誰かに狙われることもなく、痛みや恐怖から遠い場所で幸せに暮らせたのかもしれない。 でも、現実のミユウは違う。 白翼の継承者。 特別な癒しの力を持つ少女。 その力のせいで、天使族からも悪魔族からも狙われている。 あの白い羽は綺麗なだけじゃない。ミユウを特別にして、同時に、この世界の残酷さの真ん中に立たせているものでもあった。「事実を言っただけだ」 ルゥは腕を組んだまま、俺を上から下まで眺めた。 銀色に近い淡い髪が風に揺れている。整った顔立ちをしているのに、その目つきだけは刃物みたいだった。「ミユウを守る? お前が? 雑魚の偽物が?」 胸の奥に、鈍い音がした。 雑魚。 偽物。 たった二つの言葉が、俺の足元を崩していく。 学校では、こんなふうに誰かから面と向かって価値を否定されたことなんてなかった。何者にもなれない焦りを、くだらない妄想でごまかしていた俺には、ルゥの言葉が痛すぎた。「偽物かどうかは、まだ決まってないだろ」 やっと出た声は、思ったより低かった。 ルゥの眉が少しだけ動く。「へえ。口だけは救世主っぽいな」「口だけで終わらせるつもりはない」「なら、見せてみろ」 ルゥが片手を掲げた瞬間、裏庭の空気が変わった。 神殿の白壁に刻まれた紋様が、かすかに光る。足元の草が、見えない風に押されるようにざわめいた。 少し離れた噴水の水音まで、急に遠のいた気が
「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」 俺の声は、自分で思ったより低く響いた。 白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。 ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。 それでも、一つだけ引っかかっていた。 目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。 俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。 瀬野龍夜。 俺が名乗る前に。 その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気
白い扉の前で、俺は足を止めた。 測定の間。そこへ向かうまで、ミユウは俺の手首を掴んだまま、迷いなく歩いてきた。「龍夜くん、こっちだよ」「……これ、本当に必要なのか」 ミユウはきょとんと振り返った。白い羽が揺れ、銀色の髪が肩で跳ねる。「必要だよ。龍夜くんが、どんな力を持ってるか見るの」「持ってなかったら?」 自分でも嫌な聞き方だと思った。 けれどミユウは怒らない。俺の手首を離し、両手で俺の手を包んだ。「持ってなくても、龍夜くんは龍夜くんだよ」「それ、答えになってない」「うん。答えじゃないよ。でも、先に言いたかったの。水晶が見せるものが、ぜんぶじゃないって」 小さな掌は
教室の床が光った瞬間、俺の指先からスマホが滑り落ちた。 画面の中では勇者が剣を振り上げたまま止まり、机の脚も、上履きの先も、椅子の影も白く焼けていく。誰かのシャーペンが床に転がる音だけが、耳の奥でやけに大きく響いた。 次に膝へ触れたのは、教室の床ではなかった。 手のひらに食い込む、ざらついた石の冷たさ。肺に入った空気は、チョークではなく、古い香炉と雨上がりの石畳みたいな匂いがした。 俺は瀬野龍夜。漫画やゲームの世界に逃げ込み、異世界で無双する妄想ばかりしている、ごく普通の高校生だ。 ……なのに。 足元には白い線で描かれた巨大な円があった。文字、羽のような模様、薄く脈を打つ光。そ