Mag-log in「……あの人が」
かすれた声が、夜の部屋に落ちた。
アストリアの神殿の奥。ミユウに与えられた部屋は、白い石壁に囲まれていて、窓から差し込む月明かりだけが、薄く床を照らしていた。
昼間はあれだけ人の声であふれていた神殿が、今は嘘みたいに静まり返っている。
その静けさの中で、ミユウは眠っていた。
いや、眠っているはずだった。
白い羽は力なくシーツに広がり、細い指は胸元で何かをつかもうとするように震えている。額には汗が浮かび、唇だけが何度も同じ言葉を繰り返していた。
「……あの人が。……あの人が」
俺は椅子を蹴るように立ち上がった。
「ミユウ」
返事はない。
「ミユウ、起きろ」
声をかけても、まぶたは開かない。代わりに、ミユウは苦しそうに眉を寄せ、首を横に振った。
「いや……来ないで……」
胸の奥が冷えた。
昼間、ミユウは倒れるまで人を癒した。
止めても笑っていた。まだ大丈夫だと、いつもの明るい声で言った。
大丈夫なわけがなかった。
こんなに細い体で、こんなに力なく眠って、夢の中でまで誰かに怯えている。
俺はベッドの横に膝をつき、ミユウの手を握った。
驚くほど冷たかった。
「ミユウ!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
その瞬間、ミユウの瞳が開いた。
「っ……!」
白い羽が跳ねる。ミユウは何かから逃げるように上半身を起こし、そのままベッドの端へ傾いた。
「危ない!」
俺は考えるより先に腕を伸ばした。
倒れ込んできた体を抱き止める。
軽い。
あまりにも軽かった。
腕の中のミユウは、今にも消えてしまいそうだった。薄い雪を抱いているみたいに、強く触れたら壊れそうで、離したら二度と戻ってこない気がした。
「龍夜……くん……?」
「俺だ」
「ここ……どこ……? あの人は……」
またその言葉を聞いた瞬間、胸の奥に火がついた。
怒りじゃない。
たぶん、悔しさだった。
俺はミユウの肩を支え、逃げるように揺れる顔を自分のほうへ向けた。
「悪夢でも、ラフィセルでもなく、俺を見ろ」
ミユウの瞳が揺れた。
「俺はここにいる。お前の目の前にいる。だから、今はそいつを見るな」
「でも……」
「でもじゃない」
俺はミユウの額に、そっと口付けを落とした。
ほんの一瞬だった。
泣きそうな子どもを現実に引き戻すみたいに。震えている心に、ここにいると伝えるみたいに。
ミユウの呼吸が、少しだけ落ち着く。
俺は額を離し、真っ直ぐ見つめた。
「命を削ってまで、誰かを助けるのはやめろ」
「龍夜くん……」
「人助けが好きなのは知ってる。目の前で苦しんでる人を放っておけないのも知ってる。でもな」
喉の奥が熱くなった。
責めたいわけじゃない。
泣かせたいわけでもない。
ただ、もう見たくなかった。
倒れて、目を覚まさなくなって、うわごとで知らない男に怯えるミユウなんて。
「お前が倒れたら、俺が怖いんだよ」
ミユウの目が大きくなった。
「俺はまだ弱い。魔力もほとんどない。剣だってまともに振れない。だけど、お前が俺の前で消えそうになってるのを、ただ見てるだけなんて絶対に嫌だ」
「消えないよ……私、ここにいるよ」
ミユウは笑おうとした。
けれど、笑顔になりきれなかった。
いつもの太陽みたいな明るさが、今は薄い布の向こうに隠れているみたいだった。
俺はミユウを支えたまま、できるだけ強く言った。
「いるなら、ちゃんと生きてろ」
ミユウの唇が震えた。
「……うん」
「お前だけが無理するな。お前だけが笑って、大丈夫って言って、倒れるまで頑張るな」
「だって……私、助けられるなら助けたいの」
「それは悪いことじゃない」
「泣いてる人がいたら、笑ってほしい。苦しんでる人がいたら、楽になってほしい。そう思ったら、止まれなくなるの」
「なら、俺が止める」
ミユウが息をのんだ。
俺は震える背中を支えながら、はっきり言った。
「お前が走りすぎるなら、俺が止める。お前が倒れそうなら、俺が抱き止める。お前が怖い夢を見るなら、俺が起こす。ラフィセルが来るなら、俺が前に立つ」
「龍夜くんは……魔力、ないのに?」
「ない」
即答した。
ミユウが涙で濡れた目を丸くする。
「剣も下手だ。ルゥに言わせれば、たぶん救いようがないくらい未熟だ」
「そんなことない!」
急にミユウが顔を上げた。
涙をためたまま、必死に首を振る。
「龍夜くんはすごいよ! 魔力がなくても立ってた! 私のこと、守ろうとしてくれた! 逃げなかった! すごく、すごくかっこよかった!」
真っ直ぐすぎる言葉に、胸が詰まった。
こんな状態でも、ミユウは俺を褒める。
自分のほうが苦しいくせに、俺を信じようとする。
だから俺は、この子を守りたいと思った。
守らなきゃいけないからじゃない。
召喚されたからでもない。
勇者に選ばれたからでもない。
俺が、そうしたいと思った。
「じゃあ、そのかっこいい俺が言うことを聞け」
「え?」
「今日は寝ろ。もう誰も癒すな。誰が来ても断る。泣かれても断る。お前が勝手にベッドから出ようとしたら、抱えて戻す」
「龍夜くん、怒ってる?」
「怒ってる」
「私のこと、嫌いになった?」
「なるわけないだろ」
声が強くなった。
ミユウはびくりとしたあと、また泣きそうな顔になった。
「嫌いになれるなら、とっくになってる。お前が勝手に無茶して、俺の寿命を縮めるようなことばっかりしても、嫌いになんかなれない」
「寿命、縮んだの?」
「かなり縮んだ」
「ご、ごめん……」
「だから寝ろ」
ミユウは小さく笑った。
涙の残る笑顔だった。
その笑顔を見て、少しだけ胸の痛みが和らいだ。
ミユウは俺の制服を握ろうとした。
けれど、その指には力が入らない。
布をつかんだというより、触れているだけだった。
その弱さが、胸に刺さった。
ミユウは、いつも明るい。
誰かを助ける時は迷わない。
笑って、走って、手を伸ばす。
でも今、俺の腕の中にいるミユウは、服を握る力さえ残っていなかった。
「……私、ひとりで頑張らなくていいの?」
小さな声だった。
俺は息をのんだ。
そんなことを、今まで誰も言わなかったのか。
この子はずっと、笑っているから大丈夫だと思われてきたのか。
助けられるから、助けるのが当然だと思われてきたのか。
「いいに決まってるだろ」
俺はミユウを抱きしめ直した。
「お前だけが頑張るな。お前だけが背負うな。俺はまだ弱いけど、隣に立つ。今すぐ全部は無理でも、いつか絶対に、お前が無理しなくていいくらい強くなる」
ミユウの肩が震えた。
「そんなこと……言われたの、初めて」
そして、ミユウは泣いた。
声を上げるでもなく、ただ俺の胸に額を寄せて、静かに涙をこぼした。
俺は何も言わなかった。
言葉で慰めるより、今は離さないことのほうが大事な気がした。
その時、扉の向こうから軽い足音が近づいてきた。
扉が開く。
入ってきたのはルゥだった。
金色の瞳でこちらを見るなり、ルゥは少しだけ眉を上げた。
「ずいぶん深刻な顔をしていますね、龍夜」
「今それを言うのか」
「事実ですから」
相変わらず、丁寧なのに偉そうな声だった。
ルゥはベッドのそばまで歩いてきて、ミユウの顔を見る。わずかに目を細めた。
「ミユウ。まだ動いてはいけません。あなたは自分が思っているより危うい状態です」
「うん……ごめんね、ルゥ」
「謝罪より睡眠を優先してください」
言い方は冷たい。
けれど、ミユウの布団を直す手つきは雑ではなかった。
ルゥは俺に視線を移した。
「龍夜、来なさい」
「今か?」
「今です」
「ミユウは」
「ここにいます。逃げる体力もないでしょう。もっとも、逃げようとした場合は、あなたが先ほど宣言した通り抱えて戻せば済む話です」
ミユウが布団の中で小さく肩をすくめた。
「龍夜くん、行ってきて。私、ちゃんと寝てる」
「信用できない」
「ひどい!」
少しだけ、いつもの声が戻った。
それだけで救われる。
俺はミユウの手を握り直した。
「すぐ戻る」
「うん」
「本当に寝てろ」
「うん」
「誰か来ても癒すな」
「……うん」
「今の間は何だ」
「ちょっとだけ迷った」
「迷うな」
ミユウは困ったように笑った。
でも、その笑顔の下に疲れが残っているのは隠せていない。
俺は立ち上がり、ルゥの後について部屋を出た。
廊下は冷えていた。
神殿の石造りの壁に、夜の静けさが染み込んでいる。昼間は助けを求める声であふれていた場所が、今は遠い世界みたいに静かだった。
ルゥは振り返らず歩く。
「ラフィセルの名を聞きましたね」
「ミユウがうなされてた。あいつは何者なんだ」
「今のあなたに説明しても、すべてを理解するのは難しいでしょう」
「なら、理解できるところだけ話せ」
ルゥがちらりと俺を見た。
「言い返すだけの気力は残っているようですね」
「知らないまま怯えるのが嫌なだけだ」
「悪魔族の族長ラフィセル。長い間、ミユウを追い続けている存在です」
長い間。
その言葉の重さに、喉が詰まった。
「……ミユウは、そんなやつにずっと?」
「ええ。夢の中でさえ逃げ切れないほどに」
拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
「今ので気づかれたのか」
「可能性はあります。ミユウの力が大きく揺れました。癒しの力を無理に使いすぎたせいで、存在の光が外へ漏れた」
「つまり、昼間のあれで」
「あなたが止めるのが遅ければ、もっと危険な状態になっていたでしょう」
悔しさが腹の底に落ちた。
俺は守ったつもりで、まだ何も守れていない。
ミユウが倒れるまで止められなかった。
悪夢から引き戻すことしかできなかった。
ラフィセルという敵の名前を聞いても、今の俺には剣を握る力さえ頼りない。
それでも、逃げたくなかった。
ルゥは神殿の裏庭へ出た。
月明かりの下、白い石柱が並んでいる。昼間、俺がスライムと向き合った場所だ。
風が吹き、制服の裾が揺れた。
ルゥは俺の前で立ち止まり、指先をすっと上げた。
「龍夜」
「何だ」
「あなたは弱い」
「知ってる」
「魔力はほぼありません。剣技も未熟。体力も平凡。戦いの才能があるとは言い難い」
「そこまで並べる必要あるか」
「あります。現実を知らない者は、最初に倒れます」
ルゥの声は淡々としていた。
突き放すようで、逃がさない声だった。
「ですが」
ルゥは一拍置いた。
「根性だけはあります」
俺は思わず顔を上げた。
ルゥは偉そうに腕を組んでいる。
「本当に、そこだけです。勘違いしないでください」
「一言多いんだよ」
「重要な補足です」
その瞬間、ルゥの指先から光があふれた。
白ではない。
星を砕いたような青銀の光が、俺の足元に円を描く。風が巻き上がり、制服の襟元が震えた。
「おい、何を」
「動かないでください。見てくれを整えます」
「見てくれ?」
光が一気に体を包み込んだ。
制服の布がほどけるように光へ変わり、次の瞬間、肩にずしりと重みが落ちた。
「うわ、重っ」
思わず声が出た。
黒を基調にした服。
胸元には硬い防具のような装飾がつき、腰には剣を下げるための帯が巻かれている。肩には軽い鎧のようなものまで乗っていた。
見た目は、たしかに勇者っぽい。
けれど、着た瞬間にわかった。
動きづらい。
「何だこれ。重いし、腕が上げにくい」
「勇者服です」
「服っていうより修行器具だろ」
「その認識で合っています」
「合ってるのかよ」
ルゥは満足そうに俺を見た。
「見てくれだけはそれらしくなりましたね」
「うるさい」
「中身はまだ追いついていません」
「本当に一言多いな」
俺は腕を回そうとして、肩の重さに顔をしかめた。
こんなものを着て戦うのか。
スライム相手ですら苦戦した俺が。
でも、不思議と脱ぎたいとは思わなかった。
重い。
動きづらい。
息苦しい。
それでも、この重さが今の俺には必要なものに思えた。
ミユウを守ると言った。
ラフィセルが来るなら前に立つと言った。
なら、軽い制服のままじゃ駄目だ。
何かを背負うなら、その重さに慣れなきゃいけない。
「アストラルブレイドを扱うには、その体では足りません」
ルゥが言った。
「魔力のないあなたが剣を振るうなら、体と心で不足を埋めるしかありません。アストラルブレイドは、才能のない者に優しい剣ではありません」
「優しくなくていい」
俺は腰の剣帯に手を置いた。
まだそこに剣はない。
それでも、もう握ると決めていた。
「俺に優しくする必要なんかない。強くなれるなら、それでいい」
ルゥの目がわずかに細くなる。
「口だけなら、いくらでも言えます」
「だったら試せよ」
風が止まった。
自分の声が、夜の庭にまっすぐ響いた。
「ミユウがまた無茶する前に、俺が止める。ラフィセルが来る前に、俺が前に立てるようになる。魔力がないなら、ないまま強くなる。剣が重いなら、重いまま振る」
胸の奥で、何かが熱くなっていた。
怖さは消えない。
勝てる保証なんてどこにもない。
でも、ミユウの冷たい手を思い出した。
俺の制服を握る力さえない指を思い出した。
それだけで、足が前に出た。
「俺は、ミユウのために勇者になる」
口にした瞬間、それは願いじゃなくなった。
決意になった。
ルゥはしばらく俺を見ていた。
そして、ゆっくり笑った。
優しい笑みじゃない。
試すような、容赦のない笑みだった。
「では、次の相手を用意しましょう」
「スライムか?」
「いいえ」
ルゥが指を鳴らした。
空気が裂けた。
裏庭の中央に黒い影が落ちる。影はぐにゃりと広がり、そこから小さな角を持つ魔物が這い出してきた。
子どもくらいの大きさ。
痩せた体。
細い腕。
けれど、目だけがぎらぎらと赤く光っていた。
背中には裂けた羽のようなものがあり、口元からは笑っているような息が漏れている。
スライムとは違う。
見た瞬間、肌が粟立った。
こいつは、ぶつかれば痛いだけでは済まない。
こちらを倒す気で来る。
「小型悪魔です」
ルゥの声が落ちる。
「安心しなさい。本物よりはかなり弱く調整しています」
「安心できる要素がどこにある」
「あなたがすぐ倒れない程度です」
「それも安心できない」
小型悪魔が首をかしげた。
そして、にたりと笑った。
その笑みを見た瞬間、足が一歩下がりそうになった。
怖い。
当たり前だ。
俺は普通の高校生だった。昨日まで、こんな化け物と戦う人生なんて想像もしていなかった。
でも、背中にミユウの部屋がある。
あの部屋で、ミユウが眠っている。
泣きながら、俺の服を弱々しく握ったミユウがいる。
俺は奥歯を噛みしめた。
下がりかけた足を、地面に打ちつける。
「ルゥ」
「何ですか」
「アストラルブレイドを出せ」
「扱えませんよ」
「扱えるようになる」
「今は振り回されるだけです」
「だったら、振り回されながら覚える」
ルゥの口元が、ほんの少しだけ上がった。
「無謀ですね」
「丁寧に強くなってる時間がない」
俺は小型悪魔から目をそらさなかった。
怖いなら見ろ。
震えるなら握れ。
逃げたいなら、一歩前に出ろ。
自分にそう言い聞かせた。
ルゥが手をかざす。
光が集まる。
俺の右手の中に、星の光でできたような剣が形を持った。重さが腕にのしかかる。普通の剣とは違う。手のひらから骨まで響くような熱があった。
アストラルブレイド。
名前だけは聞いていた剣。
けれど握った瞬間、わかった。
こいつは俺を選んでなんかいない。
俺を試している。
腕が震える。
肩が悲鳴を上げる。
それでも、俺は剣先を下げなかった。
小型悪魔が低く唸る。
石畳を爪で引っかき、こちらへ体を沈めた。
来る。
俺は息を吸った。
ミユウの顔が浮かんだ。
涙をためて、俺をすごいと言った顔。
俺を信じている顔。
だったら、応えろ。
俺は剣を構えた。
「来いよ」
声は震えていなかった。
小型悪魔が跳んだ。
黒い影が月明かりを裂いて迫る。
速い。
体が反応するより先に、恐怖が背中を叩いた。
それでも俺は逃げなかった。
剣を持ち上げる。
重い。
間に合わない。
そう思った瞬間、ミユウの弱い指の感触がよみがえった。
間に合わせるんだ。
俺は歯を食いしばり、力任せにアストラルブレイドを振り上げた。
刃と爪がぶつかる。
火花のような光が散った。
衝撃が腕を貫き、足元が崩れそうになる。肩が外れそうに痛い。呼吸が詰まる。
けれど、倒れなかった。
小型悪魔が目を見開く。
俺も、自分で驚いていた。
受け止めた。
ほんの一撃。
それだけだ。
でも、受け止めた。
「……重すぎるんだよ、この剣!」
「剣のせいにしないでください」
ルゥの声が飛んでくる。
腹が立つ。
その腹立たしさが、少しだけ恐怖を押し返した。
小型悪魔が爪を引き、もう一度飛びかかってくる。
今度は横から。
俺は足を動かした。
勇者服が重い。体が流れる。剣も遅い。
でも、見えた。
相手の動きが少しだけ見えた。
俺は半歩踏み込み、剣の腹で爪を弾いた。
また衝撃。
腕が痺れる。
それでも前へ出る。
「俺は」
息が苦しい。
「もう」
足が震える。
「見てるだけのやつにはならない!」
叫んで、剣を振った。
小型悪魔の体をかすめる。
深くは入っていない。
けれど、黒い影が初めて後ろへ跳んだ。
ルゥが目を細める。
「……あなたにしては、悪くありません」
その声が聞こえた。
ほんの少しだけ、認められた気がした。
でも、そんなことに浸っている暇はない。
小型悪魔はすぐに体勢を立て直し、赤い目で俺を睨んだ。
俺は剣を構え直す。
腕は痛い。
肩も重い。
足は今にも笑いそうだ。
それでも、胸の奥だけは熱かった。
ミユウ。
俺はまだ弱い。
すぐには勇者になれない。
だけど、今日ここで逃げなければ、明日の俺は少しだけ強くなれる。
明日の俺が逃げなければ、その次の日はもっと前に立てる。
だから見てろ。
悪夢なんかじゃなく、俺を見ろ。
俺はお前を守るために、何度でも立つ。
小型悪魔が再び地面を蹴った。
俺も前へ出た。
月明かりの下、重い勇者服をまとい、扱いきれない剣を握りしめて。
弱いまま。
震えたまま。
それでも俺は、初めて自分の意思で勇者への一歩を踏み出した。
「うそ…だろ。なんで…お前…そんな」 声が震えた。 広大な玉座の間へ放たれたはずの言葉は、黒い柱と高い天井に何度も反響し、最後には冷たい石の壁へ吸い込まれていった。 返事はない。 正面に立つミユウは、俺が知る白い翼の少女ではなかった。 銀色の髪は変わらない。細い頬も、透き通るような瞳も、何度も俺へ笑いかけてくれた顔も同じだ。 けれど、その背中から広がっている翼だけが、夜よりも深い黒に染まっていた。 一枚一枚の羽根から闇色の魔力がこぼれ落ち、床を這う霧となって彼女の足元へ絡みついている。青白い燭台の炎が黒い翼に遮られ、ミユウの顔には凍りついたような影が差していた。 違う。 姿だけじゃない。 俺を見る目に、あのあたたかさがない。「ミユウ……」 名前を呼び、一歩踏み出した瞬間、胸の奥で冷たい輪が縮んだ。「ぐっ……!」 心臓を内側から握り潰されるような衝撃に、身体が前へ折れる。 俺は胸を押さえた。螺旋階段を駆け上がっていたときから続いている異変が、玉座の間へ入ってから急激に強まっている。 乱れた呼吸が、やけに大きく響いた。 床へ膝が落ちそうになる。 それでも、つま先に力を込めた。 ここまで来たのは、倒れるためじゃない。 あいつを連れて帰るためだ。 俺が顔を上げると、ミユウは黒い翼の向こうから俺を見下ろしていた。澄んだ瞳には、心配も迷いも浮かんでいない。 やがて、薄い唇が冷たく動いた。「無様な姿ね」 聞き慣れた声だった。 だからこそ、その言葉は刃より深く胸へ突き刺さった。 ミユウは具合が悪そうな誰かを見つければ、考えるより先に駆け寄るようなやつだった。苦しむ相手を見下ろして笑うなんて、俺の知るミユウなら絶対にしない。「そんな顔で、そんなこと言うなよ……」 絞り出した声に、ミユウは答えなかった。 黒い翼をゆっくりと畳み、俺へ背を向ける。 そして玉座へ向かって歩き出した。 一歩ごとに鳴る靴音が、冷たい空間を重く打つ。 俺から離れ、あいつへ近づいていく。 玉座の間の最奥には、黒銀の装飾に囲まれた巨大な玉座がそびえていた。その上に腰かけるラフィセルは、頬杖をついたまま俺たちを見下ろしている。 怒りも警戒もない。 俺がここへ来ることも、ミユウが俺の前に立つことも、最初から知っていたような顔だった。 玉座へ続く床には
靴底が石段を打つたび、乾いた足音が螺旋階段の奥へ吸い込まれていった。 ひび割れた石壁は肩が触れそうなほど近く、壁に掛けられた古いランタンだけが、狭い足元を頼りなく照らしている。炎は風もないのに揺れ、俺の金色の髪と、ねじれながら伸びていく影を何度も闇へ沈めた。 右へ、さらに右へ。 いくら登っても同じ景色が続き、中央の吹き抜けは底のない穴のように口を開けている。錆びた手すりの向こうを覗いても、下層の明かりさえ見えない。踏み外した石片が暗闇へ落ちていったが、いつまで待っても音は返ってこなかった。 胸の奥で、鼓動がひとつ大きく跳ねた。 続くはずの次の鼓動が来ない。 心臓だけが取り残されたような空白のあと、遅れを取り戻そうとする激しい脈動が胸を内側から叩いた。冷たい輪で締めつけられる感覚が強まり、吸い込んだ息が喉の途中で止まる。「っ……まだだ」 俺は胸元を押さえていた手を離した。 痛みがあることはわかっている。体が普段どおりではないことも、無視できるほど鈍くはない。 それでも、止まる理由にはならなかった。 この階段の先にミユウがいる。それなら今の俺に必要なのは、痛みの正体を考えることではなく、一段でも多く登ることだ。 視界を遮る曲がり角へ踏み込んだ瞬間、頭上の闇が膨らんだ。 俺は反射的に右手を伸ばした。「アストラルフレイム!」 金色の光が指先へ集まり、剣の形を結ぶ。 直後、上段から振り下ろされた巨大な爪が刃へ激突した。 耳を刺す金属音とともに、狭い階段の空気が爆ぜる。両腕へ押し潰すような重圧がかかり、足元の石段から何本もの亀裂が伸びた。俺は奥歯を噛みしめ、沈みそうになった腰を支える。 敵は上にいる。 ただでさえ狭い場所で、体重まで乗せた一撃を受け続ければ押し切られる。 俺は刃をわずかに傾け、爪の力を外壁側へ逃がした。黒い爪がアストラルフレイムの表面を滑り、石壁へ深く突き刺さる。 石の破片が頬をかすめた。 敵の腕の下を潜り、二段上へ踏み込む。懐へ入れば巨体の力は使えない。そう判断して剣を振り上げようとしたが、切っ先が低い天井へ触れた。 ほんの一瞬、剣筋が止まる。 その隙を、敵は見逃さなかった。 横から黒い衝撃が叩き込まれた。「ぐっ!」 体が浮き、外壁へ弾き飛ばされる。 俺は激突する直前に左足を壁へ突き立てた。靴底が石を削
「ミユウ!」 閉じかけた魔界の門へ、俺は手を伸ばした。 赤黒い光の裂け目が、刃のように細くなっていく。その向こうで、ラフィセルがミユウを連れ去ろうとしていた。白い翼を押さえ込まれても、ミユウは振り返り、まっすぐに俺を見ていた。 怯えきった顔ではなかった。 俺が来ると信じている目だった。「龍夜くん!」 声が届いた直後、ラフィセルの姿が闇に溶けた。 門が閉じる。 ミユウの白い指先が見えなくなり、赤黒い光は一本の線となって消えた。俺の手は、何もない空間をつかんだ。「ミユウ!」 返事はない。 鏡の池を渡ってきた冷たい風が、金色の髪を揺らした。さっきまで門があった場所には、黒く焼けたような円形の跡だけが残っている。「ミユウ! 聞こえるか!」 俺は拳で門の跡を叩いた。 固い壁を殴ったような衝撃が腕を走る。それでも構わず、もう一度拳を振り上げた。「ミユウ!」「いつまでそうやって叫んでいるつもりですか」 背後から飛んできたルゥの声が、俺の拳を止めた。 振り返ると、ルゥは腕を組んで立っていた。いつもと変わらない、偉そうな顔だ。けれど、その視線は俺ではなく、閉じた門へ向けられている。「叫べば門が開くのですか。あなたの声が大きいことくらい、もう十分に分かりました」「分かってる。だけど……!」 言いかけた言葉をのみ込む。 このまま名前を呼び続けても、何も変わらない。 ミユウは最後まで俺を見ていた。助けを諦めた顔ではなかった。なら、俺がここで立ち止まる理由はない。 俺は目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。 冷たい空気が胸へ入る。速くなっていた鼓動を数え、吐く息と一緒に焦りを押し出した。 今やるべきことは、嘆くことじゃない。 閉じた門を開けることだ。「ルゥ。この門は、もう開かないのか」「通常の方法では無理でしょう。向こう側から閉じられた門です。鍵穴すら残っていません」「通常の方法なら、か」 ルゥがわずかに眉を動かした。 俺は再び門の跡へ向き直り、今度は拳ではなく、開いた手のひらを押し当てた。 氷に触れたような冷たさが皮膚から染み込んでくる。 だが、その奥に別のものがあった。 小さな脈。 閉じた門の向こうで何かが鼓動しているように、かすかな振動が手のひらへ返ってくる。 意識を集中すると、俺の身体の内側にも、それに応える熱が生
ラステルへ続く街道が深い森へ差しかかる少し前、俺たちは道端で休んでいた旅商人から、不思議な池の話を聞いた。「ここから東へ半刻ほど歩いたところに、鏡みたいな池があるんだ」 旅商人は荷馬車の車輪へ新しい留め具を打ち込みながら、まるで近所の井戸について話すような気軽さで言った。「鏡みたい?」 ミユウがすぐに食いつく。「ああ。風が吹いても波一つ立たない。空も雲も、のぞき込んだ人間の顔も、何もかもそのまま映すそうだ。けど、ただ姿を映すだけじゃない。本当の姿、本当の心まで見せるんだとさ」「本当の心……」 ミユウはその言葉を確かめるように、胸の前で両手を重ねた。 穏やかな午後の日差しが、彼女の白い翼を淡く照らしている。旅商人の話を聞くまでは、道端に咲いている小さな花を楽しそうに眺めていたのに、今は池のことしか頭にないらしい。 その横顔を見た時点で、俺には次の言葉が予想できた。「行ってみたい!」「そう言うと思った」「だって、本当の心を映すのよ? すごくない?」「すごいかもしれないけど、今からラステルとは違う方向へ行くんだぞ」「半刻だけでしょう? それに、池の中で困っている人がいるかもしれないわ」「今の話のどこに、困っている人が出てきたんだよ」「詳しいことを話したがらない人がいるって言っていたでしょう? 怖い思いをしたのかもしれないわ」 ミユウは真剣な顔で旅商人を見る。「その池へ行った人は、みんな無事に戻ったんですか?」「少なくとも、俺が会った連中は生きて戻ってきたよ。ただ、池の中で何を見たのか聞いても、黙り込むばかりだったな。中には泣き出す者もいた」 俺は思わず森の方角へ目を向けた。 街道から外れた先には、日の光が届かないほど密集した木々が並んでいる。穏やかな風が吹いているのに、森の奥だけはひどく静かだった。「なるほど。本当の心を映すというより、心の奥へ直接作用する魔法かもしれませんね」 ルゥが腕を組み、考え込むように目を細めた。「珍しく慎重だな」「珍しくとは何です。私はいつでも物事を深く考えています」「じゃあ、行くのは反対か?」「誰がそのようなことを言いました?」 ルゥは少し顎を上げた。「人間の噂など、大半は尾ひれのついた作り話です。しかし、本当に精神へ作用する池ならば、魔法的な価値はあります。無知なあなたたちだけを行か
宿屋の一室には、戦いの気配を忘れさせるような静けさが満ちていた。 小さな窓から差し込む月明かりが、木の床へ細長く伸びている。壁際の燭台では、短くなった蝋燭の炎が夜風にかすかに揺れ、そのたびに壁へ映る二人分の影も、寄り添ったり離れたりを繰り返していた。 遠くから聞こえてくる川のせせらぎ。屋根の上を撫でていく風の音。時折、古い建物が思い出したように軋む。 それ以外には、何も聞こえない。 ついさっきまで剣を握り、悪魔と命を懸けて戦っていたことさえ、遠い出来事のように感じられた。 俺は部屋の中央に立ち、自分の両手を見下ろした。 手のひらには、剣を強く握り続けた跡が残っている。体のあちこちには鈍い痛みがあったが、立っていられないほどじゃない。傷の手当ても受けている。 それよりも強く感じているものがあった。 俺の内側を、静かに流れている力。 目に見えなくても、今ははっきりと分かる。 それは誰かから借りたものでも、俺の手に余る得体の知れないものでもなかった。確かに俺の中で生まれ、呼吸に合わせて全身を巡っている魔力だった。 以前の力は、怒りに呼応して一気に噴き出した。 髪は荒々しく逆立ち、燃え盛るような光が視界を埋め尽くした。強大である一方、少しでも気を抜けば自分まで飲み込まれそうな激しさがあった。 だが、今は違う。 自然に流れる金色の髪を指先でかき上げながら意識を集中させると、胸の奥で魔力がわずかに動いた。静かな湖面へ波紋が広がるように、俺の意思を待っている。 俺が望めば、この力は応えてくれる。 怒りに支配されなくてもいい。誰かを守りたいという思いを、俺自身が力へ変えられる。 戦いの中でつかんだその感覚は、まだ体に残っていた。 偶然じゃない。 俺はアストラルブレイヴの力を、自分の意思で制御した。 その事実を、もう疑うつもりはなかった。「龍夜くん」 呼びかけられ、俺は顔を上げた。 ミユウが、寝台のそばに立っていた。 薄い寝間着へ着替えた彼女の銀白色の髪が、月の光を受けて淡く輝いている。いつもの明るい笑顔を浮かべようとしているのに、その青い瞳は少し潤んでいた。 ミユウは俺の姿を確かめるように、金色の髪から頬、肩、腕へ視線を動かした。 俺が本当にここにいるのか。 今にも消えてしまわないか。 そんな不安が、言葉にされなくても伝わっ
悪魔がミユウへ触れようとした瞬間、俺はその手首をつかんだ。「ミユウに触るな」 静かな声が、自分の喉から落ちた。 胸の内には、焼けつくような怒りがある。それでも、視界は澄み切っていた。以前のように感情が力を引きずり出しているのではない。 守ると決めた俺自身が、力を動かしている。 悪魔の黒い皮膚をつかんだ指先から、淡い金色の光がにじみ出した。身体の奥から流れてきた熱が腕を通り、手のひらへ集まっていく。「熱い! なんだ、これは!」 悪魔は目を見開き、翼を激しく羽ばたかせた。俺の手を振りほどくと、赤く光る手首を押さえながら空へ逃げる。 夕暮れの森に長い影が落ちた。 冷たい風が木々の梢を揺らし、草原に咲く白い花が一斉に身を伏せる。その向こうで、悪魔の黒い翼が茜色の空を切り裂いた。 逃がすつもりはない。 俺はゆっくり息を吸い、胸の奥に意識を向けた。 力を無理に引きずり出すのではなく、自分の呼吸へ重ねていく。心臓が打つたび、身体の内側にある熱が目を覚まし、肩から腕へ、腰から足へと流れていった。 金色の髪が激しく逆立つ。 足元から立ち上った淡い金色の光が、俺の全身を静かに包み込んだ。 炎のように荒れ狂うことはない。 光は俺の輪郭に沿って穏やかに揺れ、呼吸に合わせて明るさを変えている。熱も、重さも、すべてが俺の意思に従っていた。「アストラルブレイヴ……!」 背後から、ミユウの明るい声が届く。 その声に押されるように、俺は地面を蹴った。 土が弾けた。 次の瞬間、身体は木々の高さを越え、夕暮れの空へ飛び出していた。 頬へぶつかった風が、金色の髪を激しく揺らす。 速い。 そう考えた時には、地上の草原がはるか下へ遠ざかっている。 三日前までの俺なら、飛び上がった勢いに身体を任せるしかなかった。空中で姿勢を変えるだけでも全身へ無駄な力が入り、着地する場所を選ぶ余裕などなかった。 今は違う。 右足へ魔力を流すと、何もない空に見えない足場が生まれた。そこを踏み込めば、身体は俺が望んだ方向へ鋭く曲がる。 腕へ力を移せば上半身が軽くなり、背中へ巡らせれば翼がなくても風をつかめる。 まるで、空そのものが俺の道になったようだった。 胸の奥に高揚が広がる。 だが、その感覚に酔っている暇はない。 前方を飛ぶ悪魔が右へ身体を傾ける。そのわずかな動
「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で
「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだ
「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」 ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。 白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。 天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。 戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。 それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。「ルゥ、そんな言い方しないで」 俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。 背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた